大祭縁起

概要IMG_0369

春期多賀壽命尊大祭は、天保五年(1834)に、近江多賀大社から勧請された多賀壽命尊の祭礼である。「おたがまつり」と地元の人からは呼ばれている。地元では「おたがさまが終わると、春が来る」とも言われている。 おたがまつりの特徴は、祭礼の最後に行われる「玉取り」である。厄年の男が投げたソフトボールよりも少し大きい金の玉を男達が奪い合う。昔は表浜の網元の命運をかけて、若者達が競い合ったという。 祭は午前九時から一般の御祈祷を順次行っている(午後二時迄)。午後三時頃から、みこしの渡御、大般若転読、餅投げ、玉取りと続く。毎年三月第二日曜日に行われる(小雨決行)

おたがまつりの歴史

天保五年(1834)、長仙寺に旧来からあった阿弥陀堂に、近江多賀大社から、多賀壽命尊の分神を勧請した。勧請した際に、多賀大社別当から出された一通の古文書が現存している。そこには・・・

多賀大社御社務之事

一、天下泰平五穀成就之祈願無怠慢勤行可有之事

一、御城主御武運長久之祈願無怠慢勤行可有之事

一、御本社御祭礼毎年四月二午日御神事可有之事

一、諸人安全之祈願無怠慢可有之事

一、法式ニ相洩候祈願等有之間敷候

右之條々相守永く無怠慢勤行可有之事

江州多賀別当所  役 者 (印)

天保五甲午年(1834)正月吉日

三河国長仙寺

この文書には、四月に祭礼を営むことが定められていた。しかしながら、明治にはすでに三月十五日と定められていたようである。これは多賀壽命殿の本尊でもある阿弥陀如来の縁日が十五日であったことや、四月の農耕の繁忙期を避けるため、といった理由が考えられる。なお、現在は三月の第二日曜が大祭の定日となっている。

多賀壽命尊

幕末の天保五年(1834)頃は、尊皇思想が高まり、神道の復権とともに、大社等の多くの分神が各地に勧請された。多賀大社からも各地に分神が勧請された。 そもそも多賀大社のルーツである、伊弉諾・伊弉冉の両神は、国生み伝説ゆかりの神であり、天照皇大神の親でもあり、明治以前は現代以上に多賀大社の威光は各地に届いていた。 本地垂迹説によれば、多賀大明神の本地仏は阿弥陀如来である。このことから、長仙寺の阿弥陀堂に多賀大明神を勧請したのであろう。多賀大明神を勧請した頃の住職は、中興九世の行篤(ぎようとく)であった。 明治になって、廃仏毀釈の嵐が渥美半島にも吹き荒れ、多くの寺院の鎮守が境内の外に隔離され、多くは村社になった。長仙寺境内の東の猿田彦神社も、もともとは長仙寺の鎮守であった。 しかしながら、そんな冬の時代にあっても、多賀壽命尊が廃仏毀釈の対象にならなかったのは、地元住民にとって、多賀壽命尊が欠くことのできない信仰対象であったからと思われる。 日露戦争の時、田原(現田原市田原町)の徴兵軍人が征露軍人出征祈祷を行った記録が残っているが、このことは廃仏毀釈の中であっても当時の信仰の篤さを物語っている。 尚、明治三四年(1901)に、壽命殿は一度焼失し、まもなく再建され、昭和六〇年(1985)に屋根を修覆し、平成五年(1993)、待合室を増築し、今に至っている。

海とおたがまつり

長仙寺のある六連は、表浜に面していて、多くの網元によって、内海側にはない独自の非平地民の生活文化を形成していた。表浜の漁業は、地引網と沿岸漁業が主である。決して裕福ではなかったので、網元を中心にして相互扶助組織を形成していた。農耕も漁業も、網元という運命共同体の組織の上に成り立っていたのである。 その年の漁の命運を占うとして、おたがまつりの玉取りは、さながら網元の意地のぶつかり合いとなったそうである。昔は境内中を走り回り、裏山の墓地や、時には池の中にまで入り、ついに玉を見失い、争奪中止となった年もあったそうである。晴れて金の玉を取った若者は、地元に帰り、方辺(ほうべ)(表浜の断崖)に立って勝利を海に報告し、大漁を祈願したという。 このように海とおたがまつりは、切っても切れない関係だったらしい。近年、漁業は観光地引網程度に衰退してしまい、今は見る影もないが、長仙寺の東にある幽玄庭にそびえる魚鱗塔に刻まれた多くの網元達の名前に、往時の面影が伺うことができる。

現代のおたがまつり

現在おたがまつりは、3月の第二日曜日に行われている。一般の祈祷は、午前九時頃から午後三時迄行われている。午後4時から、御輿を迎えに行く人たちの御祈祷が始まり、御輿をわたすのは、四時十五分頃、白装束の若者達が担ぎ、ゆっくりと行列が進む。 行列は、先達の後に、御祈祷の大札、幡、供物、巫女、神官、御輿、僧侶、供物の順に整然と並んで進む。 結願法要(けちがんほうよう) 御輿が壽命殿に入ると、村社の祢宜によって、供物の奉奠と玉串の奉奠がなされる。その後は、仏前次第となり、いよいよ結願法要の大般若転読が行われる。 この法要には、法類の眞言宗寺院の他、地元六連(むつれ)の禅宗寺院も参列する。 法要の最後に、供物の赤飯を、参列者が手箸で口にするのが昔から村に伝わる作法である。

 

餅投げ

法要が終わると、いよいよ餅投げと玉取りである。境内中央に出された餅投げ台から、四方八方にたくさんの餅が投げられる。餅は、善男善女からの寄進によって、前日に村の人たちが総出でつく。餅の中には、当たりくじのついた餅もあり、当たった人には、ささやかな景品が配られる。 餅を投げるのは、地元の厄年の代表の男と、御輿をかついだ若者達である。餅投げの最後には、大型のお供え餅が投げられる。

 

玉取り

玉取り餅が投げ終わると、玉取りの準備に取りかかる。十数年前から危険性を当局から指摘されて、争奪の範囲を限定し、参加者も前もって受け付けて行われるようになった。玉取りの範囲は、境内中央の、東西十五メートル、南北十メートルほどの範囲である。西側の壽命殿に近い方に、行列に使われた二本の幡が立てられ、この間を、玉を持って通り過ぎた者が勝者である。 参加希望者は、現在は中学生以上の人で男女は問わない。酒気を帯びての参加は厳禁である。希望者は、玉取りが始まる前に、争奪の範囲内に入り、審判から赤いたすきをもらう。(中学生以上に参加資格を拡大したのは平成十三年から) 地元の厄年の代表が、餅投げ台に乗り、玉を右手に持ち、大きく3回まわす、そして下で待つ男達の上空に投げ放たれる。宙を舞う金の玉に、男達が手を伸ばし、争奪が始まる。たとえ手にとっても、それを持って所定の場所まで持っていくのは至難の業だ。玉を持たない男達は、玉を持つ男を枠外に押し出す。争奪の範囲を出れば、玉は審判に渡され、再び投げ入れられる。そして再び、男達が玉を取り合う。そんな激しい争奪を繰り返して、2本の幡の立つ間を玉を持って通り過ぎたものが勝者である。 勝者には、御幣、餅、酒一升、勝利者賞が贈られる。そして何よりも名誉が男に与えられる。